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対談「光と影と表と裏」

多くの企業の方々と関わりを持つことができる点が、私共のような仕事をする者の一つの喜びです。そのような中でも、特に人間的魅力に溢れた方々のうち何名かにご協力をいただき、数度にわたりお話を聞かせていただく予定です。・・・(続き)
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Vol.10-1
多屋真治氏(三菱化学株式会社 機能商品管理部長)
×相原孝夫


今回も古くからお付き合いのある方にご登場いただきます。三菱化学の多屋さんは、今からもう15年ほど前になりますが、管理職人事制度の改定でご支援させていただいた時のプロジェクトリーダーでした。当時まだ30代であった多屋さんが、人事制度改定という全社的な大プロジェクトのリーダーを務めていたわけです。比較的若手であるにも関わらず、重責を担われていることに感心したものです。それだけに真剣さも違い、要求水準も高く、私共にとってはたいへん手強いクライアントでした。
2000年前後からそれ以降にかけて、多くの日本企業において人事制度改革がなされましたが、その中でも最も早く着手されたうちの一社が三菱化学さんでした。私共としても、大手日本企業における人事制度改革の支援は緒に就いたばかりの頃で、一緒に試行錯誤を繰り返す中での真剣勝負であったこと記憶しております。ご支援するコンサルの側として、多屋さんのどんな面が特に手強かったかといえば、いわゆる一般論で納得される方ではなく、その都度ご自身の頭でしっかり熟考されたうえで、忌憚の無い意見や質問をどしどしぶつけてこられるという点においてでした。
こうしたことも、会社の行く末がこの改革に掛かっているという責任感の表われであったと思います。責任感が極めて強く、常にきちんとした仕事の進め方をされる多屋さんですが、今回もお願いしてもいないのに、業務歴の一覧を作成して事前に送ってくれました。こちらはずぼらな性格上、行き当たりばったりでざっくばらんなインタビューをいつも通りしようと思っていたわけですが、このようにして多屋さんのペースとなり、予習もし、また真剣勝負となるわけです。自分にない明白な強みを持っている人は尊敬せざるを得ません。もちろん今回の対談からも学ぶところ大でした。

キー語録(Vol.10-1)
立ち上げ全般というか、(中略)そういう一連の仕事をしてそれで日本に帰ってきました。この経験は、自分としてはずいぶんと勉強になったと思いますね。
人事以外という希望をだしていたら人事になったんです。
バブルの時代だったので、ものすごいハードワークで気が遠くなるような毎日でした。
やっぱりメーカーのDNAというか、工場で実際の職場を経験したり、そこで働く人と直接接したりしてみないと、メーカーというものが実感できない部分があると思います。

(相原)
ご経歴を拝見しますと、人事の中のあらゆることを経験して来られていますよね。

(多屋)
30年やっていますので。ただ当社の人事のなかでは非常に珍しい経歴だと言われるんです。入社当時の人事の標準的なパターンは、だいたい工場で3年くらいやって、その後は人事異動や考課昇格といった制度運用を担当する「人事」、もしくは人事制度検討や労働組合の窓口を担当する「労制」のどちらかをやるというのがオーソドックスなパターンでしたが、私の場合は工場が正味2年で、その後採用と能力開発を6年半もやりまして、その後が海外ですから、ある意味で最も基本的な人事の仕事はほとんどやらずにキャリアを積んできたんです。

(相原)
海外はご希望を出されて行かれたのですか?

(多屋)
希望を出していたわけではないです。6年半も採用をやっていたんで、「とにかく他の仕事に変えてほしい」という話はしていたんですが。当時の上司から「どうせ異動するんだったら今の仕事と一番違うところに変えてやるぞ」という話だけは聞いていたんです。それである日、海外留学生の試験があるから受けてみないかと言われました。その時は採用でほとんど毎日12時過ぎまで仕事という日々で、準備をする時間もなかったので見事に玉砕したのですが、その時に、「どうせだったら勉強よりも仕事がしたいです」というような意味のことを言ったところ、次の日に転勤が決まりました(笑)。まあ多分予定をしていたんだと思うんですけれども。


駐在は正味5年半だったですけれども、そのうちの5年くらいはバージニアの工場での勤務でした。当時はバージニアにも30人、アメリカ全土では100人前後の日本人の駐在員がおりましたので、そのメンバーのいわゆる日本的な人事管理と、世話活動と申しますか、転勤をしてきたら家を探すところから、悩み相談まで、そういったことをやっていました。また、現地の会社の総務人事課長でもあった訳ですが、現地の会社の人事業務は基本的には現地の米国人スタッフが担当しますので、私の重要な役割はある意味で日本人と米国人の経営幹部間の通訳というか、言葉の通訳ではなくて日本人の考え方を現地のマネジャーに説明したり、米国の人事の仕組み、例えば、「現地の人事部長がいっていることはこういうことなんですよ」といったことを日本人の幹部にうまく伝えるというような仕事をしていました。楽しいといえば楽しい時期でした。
それから、最後の半年が、シリコンバレーにR&D子会社を新たに立ち上げるという仕事をしました。


(相原)
立ち上げも経験されたんですね。

(多屋)
立ち上げ全般というか、会社の定款を作って、登記をして、銀行の口座を作って、オフィスを借りて、就業規則を作って、現地メンバーとの労働契約を作る、そういう一連の仕事をしてそれで日本に帰ってきました。この経験は、自分としてはずいぶんと勉強になったと思いますね。


(相原)
そもそも人事は入社時にご希望なさったのですか?

(多屋)
まったく逆です。人事以外という希望をだしていたら人事になったんですけれども、文句が言えない立場にありました。実は、工場での実習中にバレーボールをやっていて骨折しまして(笑)、配属のときには会社の附属病院にいました。ですから多分人事になったんだろうなと。

(相原)
ではご本人としては、人事になってしまってがっくりという感じでした?

(多屋)
まあ、がっくりというわけではなかったです。もともと何でもいいというのが基本でしたので。人事という仕事は同期の間でも何となく嫌がられるというか、誰が人事になるか押し付け合うみたいなところもあったので(笑)ちょっといやでしたが、そういう面では、やってみるとそんなに辛いものでもないなという感じでした。

(相原)
3年目から採用を長くなされたわけですが、採用の仕事というのは若手社員としては一番わかりやすい仕事ではありますね。

(多屋)
そうですね。ただ、バブルの時代だったので、ものすごいハードワークで気が遠くなるような毎日でした。普通ですとだいたい事務系・技術系合わせて100名~150名くらい採用する会社だったんですけれども、一番多いときで370名くらい採用しました。しかも化学系だけではなくて、当時は情報電子事業を大幅に拡張しようという時期でしたので、機械ですとか電気電子ですとか物理ですとか、それまでの当社にはなじみの薄い専門領域の学生も含めての大量採用だったので大変でした。

(相原)
入社時の工場実習は、これはどれくらいの期間なされました?

(多屋)
私のときはほぼ1ヶ月でした。3交替勤務で、朝から夕方、夕方から深夜、深夜から翌朝までという勤務シフトを3~4日単位でほぼ1周りしました。

(相原)
入社時に工場実習は必要か必要でないかという点に少々興味がありまして、メーカーさんによく聞くんですが、やはりメーカーさんに勤めるにあたっては最初の時期に工場を経験するのは必要ですか?

(多屋)
必要かどうかといわれると必要かなと。実は一度工場実習をやめた時期もありまして、しばらくしてまた復活したんですが、やっぱりメーカーのDNAというか、工場で実際の職場を経験したり、そこで働く人と直接接したりしてみないと、メーカーというものが実感できない部分があると思います。効率的かというとあまり効率的ではないんですが、理屈ではなくやはり一度は経験させたいなと思うので復活をさせたというのが本音ですね。

(相原)
ものづくりである以上は、おっしゃられたDNAとかそういったものが一番色濃く表れるのが現場なのでしょうかね。

(多屋)
そうですね。化学の現場というのはやっぱり難しいというか、化学反応というのは不安定な部分があり、プラントのプロセス全体がわかっていて、その中で温度管理とか圧力管理とか、非常に難しい仕事に携わっているオペレーターの方というのはどういう資質の方かとか、どういう真剣度で働いているかとか、そういうのを目の当たりにしますと本当に驚きますよね。休憩時間でも、化学工業便覧を勉強していたり、雑談をしていても、何か異常な現象が起こったりすると、急に顔つきが変わって、ササッと行動するとか、そういうところを見ると、なかなか奥が深いと思いましたね。

(続く)

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