多くの企業の方々と関わりを持つことができる点が、私共のような仕事をする者の一つの喜びです。そのような中でも、特に人間的魅力に溢れた方々のうち何名かにご協力をいただき、数度にわたりお話を聞かせていただく予定です。・・・(続き)
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Vol.5-1
田中潤氏(株式会社ぐるなび 執行役員 管理本部 人事部門長 兼 総務部門長)
×相原孝夫
今回ご登場願う田中さんのことは、おそらく、この対談録を日頃からご覧頂いている方々の相当数の方がご存知なのではないでしょうか。田中さんはとにかくネットワークが広いのです。様々な場で田中さんの名前が挙がります。その人脈の豊富さは、人事の分野にいる人の中では随一といってよいのではないでしょうか。実際にお付き合いしてみると、そのハードワーカーぶりと、仕事のスピード感とが、とにかく印象的な人です。
現在は、ぐるなびという、ユニークな存在として世間の注目を浴びている企業で重責を担われています。前職は、日清製粉という伝統的な大企業に長いこと勤めておられました。その転職の経緯などは、ある種独特なものがあり、一方では強く共感もでき、たいへん興味深く聞かせて頂きました。また、人脈の豊富さについても、その伏線となる事柄などをお聞きすることができました。人事パーソンとしてのキャリアを考えるうえでも、社外の方々との付き合い方について考えられるうえでも、多いにご参考にして頂ける内容となっています。ぜひ多くの方にご一読頂きたいと思います。
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(相原)
ではまず、これまでのご経歴からお聞かせいただけますか?
(田中)
1985年卒で日清製粉に入社し、営業に配属になりました。業務用の小麦粉の担当となり、小麦粉を使うメーカーの工場や卸問屋に日々営業をかけていました。神奈川、静岡エリアを5年半くらい担当しました。仕事の基本はそこで教えてもらったという感じです。
(相原)
そこで学ばれた仕事の基本というのは、主にどのようなことですか?
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(田中) まずは、抽象的ですが、「仕事は徹底的にやれ」ということでしょうか。日清製粉のシェアは当時35%程度でしたが、100%になるまで仕事は終わらないという感じでよく働きました。新規顧客をとることが好きでした。既存はとりこぼしたりしましたが。小麦粉は主原料なので、仕入先の切替えについては顧客側もよく考えます。なかなか先輩たちが獲得できてこなかった新規ターゲットについては、前任者と違うアプローチをするように常に意識していました。去年やったことと違うことをやりたいといつも思っていました。この点については、2番目の上司の影響が強いですね。とにかく、「何かを変えないと自分がいた意味がない」ということを言われました。 |
(相原)
営業のお仕事は比較的楽しくなされていたのですね。
(田中)
日々嫌なことはたくさんあったと思いますが、今あまり残っていません。実は配属を通知されたときは、営業ときいてかなり嫌だったのです。配属された東京営業部というのは、全国で最も厳しいマーケットを担当していましたし。ところが、やって1年くらい経ったころから、これは自分の天職かなと感じ始めました。なにか疑問を持っても、とにかくやってみようという素直なところがあるのかもしれません。

(相原)
その後に人事へ異動されたのでしょうか?
(田中)
6年目に人事に異動して、採用と若手の育成を担当しました。まだバブルが終わりきらない頃で、採用予算がたくさんありましたので色々な事をやりました。宣伝部に同期がいたので、その人と一緒にクリエイティブな感じで様々な企画をやりました。日清製粉はまじめな堅い会社で人事もかっちりした仕事をしていました。当時、自分は「営業から来た」という自負がすごくあり、採用は営業に近いマーケティング的な視点が必要になるので、そういった点をわかったふりしてずいぶん話していました。
人事に異動になったのは、自己申告していたからです。入社3年目くらいから、漠然とした気持ちで人事への異動希望を出してはいました。ほかの仕事のイメージがまったくつかないので、当時の異動希望には人事を書く人が多かったと思います。しかも、大半の人は人事といっても採用の仕事しかイメージがつかない。自分もそういう感じでした。
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(相原) (田中) |
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ただ遠くないうちに営業に戻るつもりだったので、勝手に「マーケティングコース」の申し込みを出したのですが、すぐにバレてまた怒られました(笑)。結局、「人事労務コース」に行き、そこで人事の仕事にはまったのです。転機だったと思います。コースでは、10人弱でチームを作って、テーマに合わせて議論して、最後に冊子をまとめました。人事の仕事がすごく外に開けている、会社横断的にできる仕事だと思って面白くなったのです。
他社の話を聞いて意見を言ったり言われたり、ということがとても面白かったです。小麦粉の営業をしていた時、砂糖屋、イースト屋など他の納入業者と仲良くなって情報交換したり、遊んだりもしていました。同業者同士も商売では喧嘩しながらもよく飲みましたし、もちろん顧客との深い付き合いもありました。他社の人とのつきあいが自分の仕事にプラスで返ってくる、それと同じことが人事にあると気付いたのです。まさに大きな転機になりました。人事の分野での社外の方との付き合いも始まりました。採用を担当している頃は、実は採用教育以外の人事労務の仕事をやっている人はつまらなそうだなあと感じていました。でも、やりようによってはそうでもないと思えたのですね。
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(田中) とりあえず3か月程度外国に行くプログラムを作ろうと考え、味の素やニチレイなどそういう制度を導入していた食品メーカーに行って話を聞かせてもらいました。どうやってこういう制度を作って、社内で調整してという実務的な事から、制度を作ったその人の思いにも触れ触発されました。 |
初年度は事務局として担当し8人派遣しました。各部門から代表選手が選定されたのですが、誰も選定されていない部門がありました。人事がそうでした。そこで人事から誰も出ていないので「自分が行きたい」と言って初年度メンバーとして行かせてもらいました。すごく印象に残っています。
何かあるとすぐにわかっている人に聞きに行くという姿勢は営業で養ったのかもしれないですね。もともとの性格ではないように思います。
(相原)
人事企画はどのくらい担当されましたか?
(田中)
2001年に持ち株分社化し、シェアードサービスの責任者を担当するようになるまでやっていました。制度改正などが多かったので、だいたい人事の仕事がわかったという気になりました。わかっていないこともあったのですが・・・(笑)。管理職の人事制度の変更、人事情報システムの導入、持ち株分社施策の実行など、イベントが続きました。持ち株会社後に持ち株会社内に作った人事のシェアドサービスの責任者になりました。
2001年頃は、シェアドサービスを始める会社が出はじめた時期です。しかし、シェアードサービスの機会がまだ広まっておらず、経営も含めてまず社内で理解してもらうのが大変でした。顧客である各グループ会社との契約などでもすごく知恵を絞っていて、他社の担当者の苦労している同士でよく飲んでいました。その流れで食品業界でシェアドサービスをやっている企業を集めて食品業界SS連絡会という会をつくり、これは今でも続いています。毎年行っている給与担当者講座はベーシック・アドバンスの2階層があるのですが、各社の社員育成のインフラとなっています。ただ、私も含めて少しずつ第一世代メンバーが転出していき、当初の熱気は冷めていきました。シェアードサービス自体も変容してしまいましたね。私がきてから、この会にぐるなびも参加させていただいています。広い意味では食の業界ですからね。
(つづく)

























